目次

1-1.はじめに (著:穂積啓一郎)

有機化合物の化学構造の認識には非破壊分析法によるものと,破壊分析法によるものとがあります.赤外スペクトルや核磁気スペクトルは前者の代表で,元素分析や湿式の原子団分析は後者に属します.ガスクロマトグラフィーや質量分析は部分的な破壊があるのでどちらとも言えませんが,このような分類の議論はさておき,元素分析は端的に完全破壊と定量的な回収の技術で特徴づけられています.

有機物が地球に出現したのは45億年前の火の玉が冷えた頃からで,水蒸気が凝縮して水となり,海ができて植物プランクトンやアメーバが二酸化炭素や太陽エネルギーを吸収して大量の有機物を作り出しました.植物や動物が陸に上がり地表を覆うようになったのはずっと後のことですが,遺伝子の指令に基づいてそれぞれの生物が独自の生化学合成を行って,無数の有機化合物を作り現在にいたっています.近代になって有機化合物を人間が合成することを覚え,合成繊維,プラスチック,医薬品,農薬など膨大な数の人工物質が生産されています.

化合物の構成要素を知るための元素分析は,1800年代の始め有機化学という科学の生まれた頃から必要不可欠の化学技術として進歩してきました.有機化合物の分子が炭素や水素など限られた種類の原子から出来ていることは,化学者を大いに勇気づけました.二三の元素の分析法がすぐに膨大な数の有機化合物の分析に応用できるからです.リービッヒ (J.Liebig) が炭素,水素の分析法を開発したことは歴史に残る貢献ですが,100 年後のプレーグル (F.Pregl) の微量分析のほうが華やかな脚光を浴び,ノーベル賞を受けることになりました.もっともリービッヒの頃はまだノーベル賞が無かったので仕方がありません.

リービッヒもそうですが,プレーグルも有機物を完全燃焼させることに随分苦労しています.コークス炉からガス炉への進歩はありましたが,現在の電気炉に比べると十分な温度が得られたとは思えません.これを補うための酸化充填剤の工夫などにその跡が見られます.燃焼管と吸収管をつなぎ,キャリヤーガスで燃焼生成物を送るという方法が効率のよい分析法として現在も主流になっていますが,流れる燃焼ガスの完全酸化や完全吸収を果たすには少々きわどい条件を充たさなければなりません.それは燃焼管充填物や吸収剤との接触時間が限られているからで,長い経験から微量分析ではこれくらいでよいという分析条件が生み出されました.

定量分析では目的成分を100%捕らえて結果を出さなければなりません.このため分析プロセスのどの段階でも中途半端や行き過ぎがあっては分析誤差として現れてきます.化学反応は速いものや遅いものがあって,複合系の反応では一番遅いものを律速反応といっていますが,これが完了するまで待つことが必要です.化学反応は分子や原子が互いに衝突して新しい物質を作る現象ですが,最初は原料が多いのでどんどん反応が進むものの,だんだん原料が減ってきて反応が鈍くなり,最後はほとんど反応が進行しなくなります.理論的にいえば反応完結には無限時間かかることになります.そこでわれわれは反応の進行が分からなくなった時点を反応完結としています.

CHN分析などキャリヤーガスを用いる流通系反応装置では分析能率を上げるために,分析結果が許容誤差範囲に入っておれば反応も完結したものとしていますが,案外最後の部分は切り捨てているのかも知れません.ときどきベースシグナルが大きくなって前の分析の影響かと思ったりしますが,反応のやり残しも原因に含まれるでしょう.

手作りのパンやおふくろの味の学生食堂がときどき見られますが,要するに大量生産のものと違って一品一品時間をかけて丁寧に作られていることを言っています.作る人と食べる人が料理法と味の評価を直接交換できますから,その場所では一番よいものになります.機器的な方法がまだ無かった時代はまさに手作りの分析法で,時間がかかろうと,手間が面倒であろうと,正確な分析結果が得られることを至上の目標として取り組みました.化学反応も必要以上に時間をかけ,場合によっては一夜放置して次のステップに進むこともありました.長時間の反応中目的成分を絶対逃がさないための密閉反応器もいろいろ工夫されています.硫黄やハロゲンの分析に利用される酸素フラスコ燃焼法もその過程で生み出されたものです.現在は速戦即決のキャリヤーガス方式が全盛で,密閉反応器に対しては関心が薄くなっていますが,定量分析の本来の目的には後者のほうが向いています.何もかも自動機器化を進めてきた現代の反省をこめて,密閉反応器のよさについて書き留めておきたいと思います.