目次

1-1.はじめに (著:穂積啓一郎)

混じりけのない物質を「純粋」と言いますが,これは「真空」と同じように概念としてはあっても実際には得難いものです.物質は無数の分子や原子から出来ていますが,1モルの物質は6×1023個の粒子の集団ですから(アボガドロ数),例えばアセトアニリド1mgはC8H9NO=135.16から計算して,

6×1023×(1×10-3/135.16)=6×1020/135.16
=4.4×1018

と言う数(4.4兆の百万倍)の分子になります.耳掻き一杯にも満たない物質量ですが,驚くべき数の集団です.これに比べると地球上の人口の50億は5×109人になり,上の数より10桁ほど少ない数値になりますが,それでも結構いろいろな人種があってお互い異文化の衝突があり,人類は中々均質になりません.純粋とは構成要素がすべて同じ規格にはまらないといけませんが,アセトアニリド1 mg中の分子(4.4×1018個)がすべて同じ化学構造のものであることは現実には無理な話で,多かれ少なかれ異物が含まれています.似たようなことは真空の定義も同じで,ガラス球をポンプで排気して殆ど気体のない空間にすることはできますが,そこは圧力が極めて低いというだけで,気体分子がゼロと言う空間にはなりません.地球上が無理でも宇宙空間に出れば真空があると思われますが,そこでも星間ガスが僅かに漂っていて,本当の真空は存在しません.

概念と現実が一致しないことは昔から経験してきたことで,それ故に概念に向けて現実の改善を図ろうとする原動力が生まれました.砂糖黍から甘味の本体を取り出すために,絞り汁を煮詰めて黒砂糖を作る技術は古くから沖縄で進歩し,江戸時代薩摩藩が独占してドル箱になりましたが,その後徳島藩で精製度の高い三盆白が出来てもっと上品な味の高級和菓子が作れるようになりました.甘味成分の繰り返し結晶化による不純物の除去がこれを可能としました.現在はもう通用しませんが,かつては黒砂糖で作ったものを駄菓子,三盆白で作ったものを上菓子という区別がありました.食物に欠かせない塩も同じで,岩塩の取れないわが国では海水が主な原料になりましたが,古代はホンダワラなど海草を乾燥して焼く藻塩から始まり,のち海水を汲み上げて煮詰めるのが主となりました.瀬戸内海は日照りがよく,塩分も濃いので砂浜は大規模の塩田となり,赤穂藩はじめ塩の産地として栄えました.塩釜で煮詰めて水分を蒸発させ,塩を結晶に出して集めるので,かなり効率のよい精製法でしたが,塩化カルシウムや塩化マグネシウムなど「にがり」が取り切れず,吸湿性でべたべたした塩ができました.赤穂の塩が良質で高値で取引されたのも,にがり除去の技術が優れていたからと言われます.

再結晶(recrystallization)はもともと固体を溶媒に溶かし,この溶液から溶媒を蒸発させ,溶け込んでいた物質を再び固体結晶として析出または沈殿させることですが,結晶の成長のとき溶液中で勝手な方向に動いていた成分分子が,一定の秩序ある積層として固体に成長し,液相から分離します.溶液から溶媒が蒸発して溶質(成分)が濃縮されると溶質どうしの接触が増え,もし相互に分子間力が働くと結合したまま動かなくなることも多くなります.有機化合物では一般的にファンデルワールス力(van der Waals force)という,分子の内部で電子が動き回っているために生じる電子密度の偏りから分子の極性または電気双極子が生まれ,その他にも水素結合など原子間の結合力が働いて相互に引き合います.同じことが繰り返されると溶質分子は溶媒を排除しながら積層し,結晶化します.このとき溶質分子は最も安定なエネルギー状態を求めて図1のように細密充填の形に並びます1).細密充填では(a)の平面層から2層,3層と隙間無く溶質分子が並ぶので,溶媒分子や異物の入り込む隙間がありません.理想的にこの細密充填が進めば一度の再結晶で高純度の溶質結晶が得られるのですが,なにしろ耳掻き一杯のアセトアニリドには4兆の百万倍もの分子があるのですから,結晶成長の過程であちらこちらに主成分と違う不純物分子を取り込んでしまうのは仕方がありません. 出来た結晶を濾過や遠心分離機で分離してもう一度溶媒に溶かし,再結晶を繰り返せばまた純度は上がりますが,だんだん主成分が無くなって来て少量,微量の物質では何回も再結晶の操作を繰り返すことが出来ません.またあまり純度が上がると今度は溶媒中の不純物や容器からの汚染が問題となってきて,ここでも限度があります.

分子の細密充填構造

図1 分子の細密充填構造

定量分析では標準物質や標準試料が重要なよりどころとなっていますが,どちらも公的機関や学会で認証された規格値を持っています.多くの場合純物質を用いますが,この他にビタミンやホルモンなど生物活性を規制するものや混合ガスの濃度を保証するものもあり,そのときは純物質でなくとも力価や濃度を保証して標準品とか標準ガスなどと呼ぶこともあります.有機元素分析では当然純物質を標準試料としますが,それは純物質において1分子の化学構造から計算される元素の含有率が,物質全体の元素の含有率と一致するからです.現実的には標準試料に僅かな不純物があっても殆どこの一致に影響を与えないことで純物質並の扱いがされています.このため日本分析化学会有機微量分析研究懇談会では標準試料検定小委員会というボランティアグループを作って,定期的に標準試料の品質管理を続けています2).試薬メーカーから提供される殆どの標準試料が規制に合格しますが,時には不合格品が見つかり,試薬メーカーに判定結果を伝えて,標準試料の精製過程や保存管理に問題がなかったかの検討を要請しています.

標準試料が定量分析の重要なよりどころとなったのは時代の推移が大きく関っています.初期の定量分析では重量法,容量法が主体で,データの計算は試料の質量,生成物の質量,滴定液の容量などの数値で行われました.滴定液の容量もビュレットの目盛りを水の質量で検定しますから,すべての定量分析の基準が質量に回帰し,この中でデータ処理が完成しました.極言すれば標準試料など無くてもよかったことになります.それにも拘わらず標準試料はアセトアニリドなど元素分析の初期から使われていて,目的は目下の分析手順が正しく行われて,燃焼や吸収,沈殿反応などが定量的に進んでいるか,そして最後に試料の理論含有率を正確に言い当てるかどうかの確認に用いられました.

大きな転機がやってきたのは1960年代の分析機器の電子化です.分析反応で得られる生成物の量や濃度を光や熱などのセンサーで拾い上げ,得られた電気信号を増幅,記録させるので,分析方法も一変しましたが,得られた電気シグナルを質量に変換しなければなりません.センサーに届いているはずの生成物量を言い当てるために,どうしても成分量既知の標準試料が必要となりました.標準試料であれば秤取った量から生成物の量も計算できます.生成物の質量と電気シグナルを対応させることで,シグナルは生成物の質量に換算できるようになりました.こうなると分析データの信頼性は標準試料の元素含有率に丸々依存することになり,標準試料が無くては分析が出来ないという現状を生んでいます.

標準試料はわが国ではキシダ化学(株)によって50種近い化合物が提供されています3).元素構成ではC, H, N, O以外にハロゲン,硫黄などを含むものがありますが,一方化学構造上の特徴として環状や鎖状構造のものや高分子化合物も選ばれています.殆どが固体結晶ですが,中には液体試料もあり,サンプリングに手際を要するものがあります.いろいろな性格を持った標準試料が選べるのはよいことですが,反面試料物質の種類が多く製造面や保存の面で技術的な問題も残されています.本稿では標準試料に関連して物質の精製法や純度の鑑定に関する基本的な事項を解説します.